「装束と御能」講演③

「装束と御能」講演②に続きます。

本講演のテーマに取り上げられた『枕慈童(まくらじどう)』。
着装によって現代のヒト(宇高徳成氏)が枕慈童へ変身した。
    IMG_0035.jpg

枕慈童の御能は7月祇園祭の「菊水鉾」や、9月9日の「重陽の節句」に深く関係している。
「枕慈童」は「菊慈童(きくじどう)」と表現されることもある。

〔枕慈童あらすじ〕
魏の文帝の治世に仕えていた使者が山中に一軒の庵から慈童が出てくるのを見つける。
慈童が周の穆王(ぼくおう)に仕えた時に枕を賜ったが
その枕をまたいでしまい流刑に処されて山へ捨てられてしまったとの事。
穆王は慈童を憐れみ、密かに法華経の二句の偈(ゲ=仏の功徳をほめたたえる詩)を書いた枕を託し
その偈の句を慈童が菊の葉に写したところ、そこに結ぶ露が不老不死の霊水となり、
それを飲み続けたから七百歳にもなったのだと語った。

やっと慈童も自分が700年生きていたという事に気が付き
自分が長寿になっていたという事と700年の流刑から許された心地がして喜びの舞を舞う。
その後自らを「彭祖(ほうそ)」と名乗ったとのこと。
〔彭祖=中国の神話の中で長寿の仙人であり、伝説の中では南極老人の化身とされており、八百歳の寿命を保ったことで有名 by Wiki
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↓会場の床の間に掛かっていた「枕慈童」を描いたお軸
 右のお軸の前には“枕”と“唐団扇”
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今の金剛能楽堂は平成15年(2003年)に現在の御所西に移転した。
以前は四条室町を上った所の金剛宗家に能楽堂があり
阪神淡路大震災の際にそこが傾いて危険になったために現在の場所に移ったとのこと。
旧金剛能楽堂は130余年の歴史があったそうである。
その舞台の横にその水が涌き出る場所があった。
水が菊の花のように涌き出ていた様から菊水と言われている。
9月9日=重陽=陽数の極である9が重なる日
「九」は一桁の数の最大の「陽」であり、特に負担の大きい節句と考えられていたが
後に、陽の重なりを吉祥とする考えに転じ、祝い事となった。
邪気を払い長寿を願って、菊の花を飾ったり、
菊の花びらを浮かべた酒を酌み交わして祝ったりしていた。
前夜、菊に綿をおいて、露を染ませ、身体をぬぐうなどの習慣があった。

〔菊酒〕
平安時代より宮中の儀式として貴族は重陽の節句に
「菊の着綿」といって菊の花にかぶせた真綿で体をこすって健康を祈った。
その際天皇が臣下に菊を浸した酒を下賜し、体をいたわった。
江戸時代に入って庶民も重陽の宴や節句祝いをするようになったとのこと。
現在は重陽の時期に料亭などで食用菊を浮かせた菊酒を出すところもある。
「重陽祭」は上賀茂神社や車折神社、嵐山の法輪寺で行われるのが有名。

〔菊水鉾〕
祇園祭になると宵山の期間中に町内で茶席能装束や枕慈童にちなんだものが出展されたりする
菊水鉾は真木の「天王座」に彭祖(ホウソ=中国の神話の中で長寿の仙人)像を祀り
稚児人形は能装束の「枕慈童」を乗せている。
鉾は1864年に兵火で焼失したが1952年(昭和27年)に再興
年によって稚児人形の能装束着せ方は交代で
法被肩脱ぎ(はっぴかたぬぎ=右袖を脱ぎ,折りたたんで背にはさむ着装法)
もしくは壺折(唐衣を上から着て衿をあけて壺を抱えているように見える着せ方)
の着付どちらかを人形に着せて鉾に乗せて巡行の準備をする。
稚児人形の着付は能楽師さんが毎年手伝っている。

現在、菊水の井はマンションのエントランス部分に碑がある。
〔所在地Map〕
(通った折には写真を撮ってUP編集します。)

これからまた猛暑の日々になる。
この重陽の時期には少し秋の風が吹き始めている頃。
今年は豪雨や台風の被害がないことを心から祈る日々である。

[完]

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京都で着物スタイリスト、着付コーディネートをしています。
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