生糸の歴史を辿る~岡谷蚕糸博物館へ~
生糸そして絹糸・・・常々触れている帯や着物の原料が
どのようにを時を経てきたか…を訪ねて、見学の為の遠出を久々に。現地にて8名の小規模学習ミニツアー。
(本文内容はブログ管理者の備忘録を兼ねるので長文&やや専門的な部分も含める)
場所は長野県岡谷市。
“宮坂製糸所”が併設されている『岡谷蚕糸博物館』。

この一ヶ所で膨大な生糸の歴史に関する資料を見ることができる。
まず、“製糸”とは
ひとつの繭から一本の糸を引き出しそれを数玉の繭からの糸で撚り合わせて行って“絹糸”を作ること。
繰糸機(ソウシキ)という機械で糸を繰り取っていくのだが座繰りによって手で糸をとるものと、自動のものがある。
生糸を作ることに関してはコチラ(宮坂製糸所のページ)
今年(2014年)世界遺産に登録された『富岡製糸場と絹産業遺産群』がある富岡市と今回訪ねた岡谷市は姉妹都市。
富岡製糸場は、明治 5 年(1872)10 月に操業を開始。明治政府は繭から生糸を繰るための繰糸機 300 釜を
当時の製糸技術の先進国であったフランスから輸入したが、
その実物のうちの 2 釜(151 番機,152 番機)がここ「岡谷蚕糸博物館」保存・展示されている。
このフランス式繰糸機は、母国フランスにも1釜も残ってなく、
世界中探してもここ岡谷蚕糸博物館でしか見られない。

これがフランス式繰糸機。(本物と同じ材質で作られたレプリカ)
富岡製糸場は官営として 21 年間営業した後、数度に渡り経営が移っていった。
昭和 14 年に日本一の製糸会社である片倉製絲紡績會社・片倉工業株式会社
(前身:諏訪郡川岸村(現岡谷市)片倉組)が受け継ぎ、
開場時から使ってきたフランス式繰糸機を改良した国産の御法川式多条繰糸機に入れ替える。
この片倉工業の本拠地が岡谷市だったのである。
(片倉工業の沿革)
生糸産業は日本の輸出製品の半分を占めるほどにもなり、
明治の終わりには中国を凌いで世界一の生糸輸出国となっていた。
当然、日本中で養蚕が農業の一部分として行われていた。
明治末期、片倉製糸松本所長今井五介の大日本一代交配蚕種普及団の提唱によって
養蚕業の蚕飼育能率が飛躍的に伸び、とれる繭からの糸品質も安定して良質の物になっていった。
(良質の繭を作らせる為に二代目は作らせず交配種一代のみで良質繭を確保する。)
“種屋(タネヤ)”という言葉を宮坂製糸所の高橋専務さんからお聞きする。
始めて耳にするが、この種屋さんが絹の元の元。
蚕の幼虫を出荷してくれる所。
昔は蚕業(さんぎょう)と言って、製糸業にとっては製品の質を左右する重要なセクションだった。
京都の松ヶ崎にある『京都工芸繊維大学』は京都蚕業講習所に端を発している。
宮坂製糸所にて数枚写真を撮らせていただいた。





絹糸の用途は着物や帯だけではない。この写真のようにインテリア用や楽器の弦などにも
用途によってデニール(太さ)を替えながら製糸する。
さて、上記は美しい光沢と節のない滑らかで輸出品としても優れた糸。
一方、かつての養蚕農家は汚れていたり形がおかしくなっているような繭(くず繭)は品質が落ちるので
製糸所へは納められずに自家用に保管していて農閑期に座繰り機を使って生糸にして布を織ったり
真綿にして寝具にしたりしていた。
衣服となる布は手引きだったり、太く繰られたり、真綿から紡がれたりしたが
それらが今や希少品や高級品ともなっている『(産地)紬』である。
“くず繭”の中でも蚕2頭(※蚕は1頭・2頭…と数える)が一つの繭を作る場合があり、これは『玉繭』という。
2頭が作るので糸が絡まっていたりする。節もある。
この玉繭を混ぜて糸を繰ると風合いに変化もつき国内向けにも輸出用にも人気が出たそうだ。
“シャンタン”という服地は横糸にこの玉糸を使用しているので糸節が風合いとなっている。
岡谷市に次ぐ製糸都市豊橋で盛んとなった玉糸製造で『玉糸繰糸機』が出来ているが、座繰で玉繭からの糸繰りは熟練の技術を要するのと、玉繭の入手困難の為豊橋の玉糸製糸は消滅してしまった。
そこで使われていた上州式繰糸機が豊橋の浅井製糸より岡谷市の宮坂製糸所へ移って
現在も稼働している。

これが玉繭。二頭入っているので少し大きい。次が繭の表面を刷毛状のものでササッとなぞって糸端を引き上げているところ。

目にも止らぬ速さでさささっと糸をまとめあげていく。繭に大小があり、全部が玉繭ではない様子がわかる。
かなりご高齢の方だがこういう技術をこれからも伝えていって欲しい。
日本の大きな産業だった製糸業。
時代の流れとともにその全盛期の物が“遺産”となり、
国内のみの原材料と人手による製品を探すことすら困難になってきた。
でも、小さな島国の民が知恵と根気で優れた物を生み出してきていることへの敬意は再認識されねばなるまい。
輸入された製造機械を改良し、糸の品質を上げるための桑や蚕への試行錯誤をし、
はじかれた繭やきれいな糸にならない部分(キビソ)も無駄にしないで利用価値を考える。
蚕糸博物館では“かつてはスゴかった”だけでなく、
モノを大事にして、身近なところから知恵を絞り、
きめ細かな工夫や配慮のある製品作りと、それらを確実にしかも大量に作り続けていた女性達の歴史もある。
TOP産業を支えていた女工さん達が賃金を手にしておしゃれをしてふるさとへ帰っていく姿の写真もあった。
帰り際に会館の駐車場を横切って行く数名のグループがあった。
みなさん車椅子の80歳代から90歳を越えていようかという女性達。
想像なのだが、お若い頃、この岡谷で製糸業に携わった女工さん達なのではないか。
きっとその当時に想いを馳せて会館内の繰糸機達と対面してきたのだろう。

生糸産業全盛の時代から約100年。
ここ数年に至り、価格重視、生産量重視の世界とはまた別の
少ない量でもイイ物、面白い物、安心して豊かな気持ちで使えるものを求める時代にもなってきた。
改めて先人たちの知恵や努力を活かさなくてはならない。
それら作っている人の顔が見えるほどの位置に私たちは住んでいる。
食べる物も、着る物も。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
今回企画していただいたOさん、同行の皆様
種々解説と撮影許可もしていただいた宮坂製糸所様
そして岡谷蚕糸博物館館長さん、
とても有意義な研修でした。
厚く御礼申し上げます。
どのようにを時を経てきたか…を訪ねて、見学の為の遠出を久々に。現地にて8名の小規模学習ミニツアー。
(本文内容はブログ管理者の備忘録を兼ねるので長文&やや専門的な部分も含める)
場所は長野県岡谷市。
“宮坂製糸所”が併設されている『岡谷蚕糸博物館』。

この一ヶ所で膨大な生糸の歴史に関する資料を見ることができる。
まず、“製糸”とは
ひとつの繭から一本の糸を引き出しそれを数玉の繭からの糸で撚り合わせて行って“絹糸”を作ること。
繰糸機(ソウシキ)という機械で糸を繰り取っていくのだが座繰りによって手で糸をとるものと、自動のものがある。
生糸を作ることに関してはコチラ(宮坂製糸所のページ)
今年(2014年)世界遺産に登録された『富岡製糸場と絹産業遺産群』がある富岡市と今回訪ねた岡谷市は姉妹都市。
富岡製糸場は、明治 5 年(1872)10 月に操業を開始。明治政府は繭から生糸を繰るための繰糸機 300 釜を
当時の製糸技術の先進国であったフランスから輸入したが、
その実物のうちの 2 釜(151 番機,152 番機)がここ「岡谷蚕糸博物館」保存・展示されている。
このフランス式繰糸機は、母国フランスにも1釜も残ってなく、
世界中探してもここ岡谷蚕糸博物館でしか見られない。

これがフランス式繰糸機。(本物と同じ材質で作られたレプリカ)
富岡製糸場は官営として 21 年間営業した後、数度に渡り経営が移っていった。
昭和 14 年に日本一の製糸会社である片倉製絲紡績會社・片倉工業株式会社
(前身:諏訪郡川岸村(現岡谷市)片倉組)が受け継ぎ、
開場時から使ってきたフランス式繰糸機を改良した国産の御法川式多条繰糸機に入れ替える。
この片倉工業の本拠地が岡谷市だったのである。
(片倉工業の沿革)
生糸産業は日本の輸出製品の半分を占めるほどにもなり、
明治の終わりには中国を凌いで世界一の生糸輸出国となっていた。
当然、日本中で養蚕が農業の一部分として行われていた。
明治末期、片倉製糸松本所長今井五介の大日本一代交配蚕種普及団の提唱によって
養蚕業の蚕飼育能率が飛躍的に伸び、とれる繭からの糸品質も安定して良質の物になっていった。
(良質の繭を作らせる為に二代目は作らせず交配種一代のみで良質繭を確保する。)
“種屋(タネヤ)”という言葉を宮坂製糸所の高橋専務さんからお聞きする。
始めて耳にするが、この種屋さんが絹の元の元。
蚕の幼虫を出荷してくれる所。
昔は蚕業(さんぎょう)と言って、製糸業にとっては製品の質を左右する重要なセクションだった。
京都の松ヶ崎にある『京都工芸繊維大学』は京都蚕業講習所に端を発している。
宮坂製糸所にて数枚写真を撮らせていただいた。





絹糸の用途は着物や帯だけではない。この写真のようにインテリア用や楽器の弦などにも
用途によってデニール(太さ)を替えながら製糸する。
さて、上記は美しい光沢と節のない滑らかで輸出品としても優れた糸。
一方、かつての養蚕農家は汚れていたり形がおかしくなっているような繭(くず繭)は品質が落ちるので
製糸所へは納められずに自家用に保管していて農閑期に座繰り機を使って生糸にして布を織ったり
真綿にして寝具にしたりしていた。
衣服となる布は手引きだったり、太く繰られたり、真綿から紡がれたりしたが
それらが今や希少品や高級品ともなっている『(産地)紬』である。
“くず繭”の中でも蚕2頭(※蚕は1頭・2頭…と数える)が一つの繭を作る場合があり、これは『玉繭』という。
2頭が作るので糸が絡まっていたりする。節もある。
この玉繭を混ぜて糸を繰ると風合いに変化もつき国内向けにも輸出用にも人気が出たそうだ。
“シャンタン”という服地は横糸にこの玉糸を使用しているので糸節が風合いとなっている。
岡谷市に次ぐ製糸都市豊橋で盛んとなった玉糸製造で『玉糸繰糸機』が出来ているが、座繰で玉繭からの糸繰りは熟練の技術を要するのと、玉繭の入手困難の為豊橋の玉糸製糸は消滅してしまった。
そこで使われていた上州式繰糸機が豊橋の浅井製糸より岡谷市の宮坂製糸所へ移って
現在も稼働している。


これが玉繭。二頭入っているので少し大きい。次が繭の表面を刷毛状のものでササッとなぞって糸端を引き上げているところ。


目にも止らぬ速さでさささっと糸をまとめあげていく。繭に大小があり、全部が玉繭ではない様子がわかる。
かなりご高齢の方だがこういう技術をこれからも伝えていって欲しい。
日本の大きな産業だった製糸業。
時代の流れとともにその全盛期の物が“遺産”となり、
国内のみの原材料と人手による製品を探すことすら困難になってきた。
でも、小さな島国の民が知恵と根気で優れた物を生み出してきていることへの敬意は再認識されねばなるまい。
輸入された製造機械を改良し、糸の品質を上げるための桑や蚕への試行錯誤をし、
はじかれた繭やきれいな糸にならない部分(キビソ)も無駄にしないで利用価値を考える。
蚕糸博物館では“かつてはスゴかった”だけでなく、
モノを大事にして、身近なところから知恵を絞り、
きめ細かな工夫や配慮のある製品作りと、それらを確実にしかも大量に作り続けていた女性達の歴史もある。
TOP産業を支えていた女工さん達が賃金を手にしておしゃれをしてふるさとへ帰っていく姿の写真もあった。
帰り際に会館の駐車場を横切って行く数名のグループがあった。
みなさん車椅子の80歳代から90歳を越えていようかという女性達。
想像なのだが、お若い頃、この岡谷で製糸業に携わった女工さん達なのではないか。
きっとその当時に想いを馳せて会館内の繰糸機達と対面してきたのだろう。





生糸産業全盛の時代から約100年。
ここ数年に至り、価格重視、生産量重視の世界とはまた別の
少ない量でもイイ物、面白い物、安心して豊かな気持ちで使えるものを求める時代にもなってきた。
改めて先人たちの知恵や努力を活かさなくてはならない。
それら作っている人の顔が見えるほどの位置に私たちは住んでいる。
食べる物も、着る物も。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
今回企画していただいたOさん、同行の皆様
種々解説と撮影許可もしていただいた宮坂製糸所様
そして岡谷蚕糸博物館館長さん、
とても有意義な研修でした。
厚く御礼申し上げます。