歌麿の肉筆画

新聞やニュースで歌麿の肉筆画が発見されたと出ていました。
“花魁と禿”というタイトルです。
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帯結びは吉原花魁の“まな板”と呼ばれる布団のような厚い帯をだらりとしたものではなく
大きくゆっさりとした文庫のタイプ。
京都嶋原の太夫の“心”という文字に似る結びではないので
その違いがあります。
でも花魁はまな板以外も結んでたんですね。
それと京都の太夫付きの“禿(かむろ=太夫や花魁のお付きの童女)”はおかっぱ頭ですが
江戸吉原の花魁の禿は結っていることがわかります。
吉原にも江戸初期には太夫がいたようですが、
中期以降は太夫にかわってトップの遊女を花魁と呼ばれたようです。
ちなみにその“花魁”の語源がはっきりしていなく、
“尾いらん”や“老乱”などなど諸説あるようですが、
禿が呼ぶ時の“をいらが(または“おゐらが”)・・・”が転じたとの説も。
“花魁”の文字は“美しい花のなかでもさきがけるもの”という意味で後付けであてたのだという説があります。

歌麿の絵の美術的考察が解説にはいろいろありますが
私はどうしても帯結びに目が行きます(笑)
着物の柄からこの絵の上部の文章が山東京伝のもので、
その京伝の妻(菊園)を描いたとありますが
菊園さんはやっぱり菊の柄の着物を着てたんですね。

禿を従える花魁の写真
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(出展:和柄ポータルサイト“わがらが”)
 


生糸の歴史を辿る~岡谷蚕糸博物館へ~

生糸そして絹糸・・・常々触れている帯や着物の原料が
どのようにを時を経てきたか…を訪ねて、見学の為の遠出を久々に。現地にて8名の小規模学習ミニツアー。
(本文内容はブログ管理者の備忘録を兼ねるので長文&やや専門的な部分も含める)

場所は長野県岡谷市。
宮坂製糸所”が併設されている『岡谷蚕糸博物館』。

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この一ヶ所で膨大な生糸の歴史に関する資料を見ることができる。
まず、“製糸”とは
ひとつの繭から一本の糸を引き出しそれを数玉の繭からの糸で撚り合わせて行って“絹糸”を作ること。
繰糸機(ソウシキ)という機械で糸を繰り取っていくのだが座繰りによって手で糸をとるものと、自動のものがある。
生糸を作ることに関してはコチラ(宮坂製糸所のページ)


今年(2014年)世界遺産に登録された『富岡製糸場と絹産業遺産群』がある富岡市と今回訪ねた岡谷市は姉妹都市。

富岡製糸場は、明治 5 年(1872)10 月に操業を開始。明治政府は繭から生糸を繰るための繰糸機 300 釜を
当時の製糸技術の先進国であったフランスから輸入したが、
その実物のうちの 2 釜(151 番機,152 番機)がここ「岡谷蚕糸博物館」保存・展示されている。
このフランス式繰糸機は、母国フランスにも1釜も残ってなく、
世界中探してもここ岡谷蚕糸博物館でしか見られない。

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これがフランス式繰糸機。(本物と同じ材質で作られたレプリカ)

富岡製糸場は官営として 21 年間営業した後、数度に渡り経営が移っていった。
昭和 14 年に日本一の製糸会社である片倉製絲紡績會社・片倉工業株式会社
(前身:諏訪郡川岸村(現岡谷市)片倉組)が受け継ぎ、
開場時から使ってきたフランス式繰糸機を改良した国産の御法川式多条繰糸機に入れ替える。
この片倉工業の本拠地が岡谷市だったのである。
片倉工業の沿革
生糸産業は日本の輸出製品の半分を占めるほどにもなり、
明治の終わりには中国を凌いで世界一の生糸輸出国となっていた。
当然、日本中で養蚕が農業の一部分として行われていた。
明治末期、片倉製糸松本所長今井五介の大日本一代交配蚕種普及団の提唱によって
養蚕業の蚕飼育能率が飛躍的に伸び、とれる繭からの糸品質も安定して良質の物になっていった。
(良質の繭を作らせる為に二代目は作らせず交配種一代のみで良質繭を確保する。)

“種屋(タネヤ)”という言葉を宮坂製糸所の高橋専務さんからお聞きする。
始めて耳にするが、この種屋さんが絹の元の元。
蚕の幼虫を出荷してくれる所。
昔は蚕業(さんぎょう)と言って、製糸業にとっては製品の質を左右する重要なセクションだった。
京都の松ヶ崎にある『京都工芸繊維大学』は京都蚕業講習所に端を発している。

宮坂製糸所にて数枚写真を撮らせていただいた。
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絹糸の用途は着物や帯だけではない。この写真のようにインテリア用や楽器の弦などにも
用途によってデニール(太さ)を替えながら製糸する。


さて、上記は美しい光沢と節のない滑らかで輸出品としても優れた糸。
一方、かつての養蚕農家は汚れていたり形がおかしくなっているような繭(くず繭)は品質が落ちるので
製糸所へは納められずに自家用に保管していて農閑期に座繰り機を使って生糸にして布を織ったり
真綿にして寝具にしたりしていた。
衣服となる布は手引きだったり、太く繰られたり、真綿から紡がれたりしたが
それらが今や希少品や高級品ともなっている『(産地)紬』である。

“くず繭”の中でも蚕2頭(※蚕は1頭・2頭…と数える)が一つの繭を作る場合があり、これは『玉繭』という。
2頭が作るので糸が絡まっていたりする。節もある。
この玉繭を混ぜて糸を繰ると風合いに変化もつき国内向けにも輸出用にも人気が出たそうだ。
“シャンタン”という服地は横糸にこの玉糸を使用しているので糸節が風合いとなっている。
岡谷市に次ぐ製糸都市豊橋で盛んとなった玉糸製造で『玉糸繰糸機』が出来ているが、座繰で玉繭からの糸繰りは熟練の技術を要するのと、玉繭の入手困難の為豊橋の玉糸製糸は消滅してしまった。
そこで使われていた上州式繰糸機が豊橋の浅井製糸より岡谷市の宮坂製糸所へ移って
現在も稼働している。

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これが玉繭。二頭入っているので少し大きい。次が繭の表面を刷毛状のものでササッとなぞって糸端を引き上げているところ。

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目にも止らぬ速さでさささっと糸をまとめあげていく。繭に大小があり、全部が玉繭ではない様子がわかる。
かなりご高齢の方だがこういう技術をこれからも伝えていって欲しい。


日本の大きな産業だった製糸業。
時代の流れとともにその全盛期の物が“遺産”となり、
国内のみの原材料と人手による製品を探すことすら困難になってきた。
でも、小さな島国の民が知恵と根気で優れた物を生み出してきていることへの敬意は再認識されねばなるまい。
輸入された製造機械を改良し、糸の品質を上げるための桑や蚕への試行錯誤をし、
はじかれた繭やきれいな糸にならない部分(キビソ)も無駄にしないで利用価値を考える。

蚕糸博物館では“かつてはスゴかった”だけでなく、
モノを大事にして、身近なところから知恵を絞り、
きめ細かな工夫や配慮のある製品作りと、それらを確実にしかも大量に作り続けていた女性達の歴史もある。
TOP産業を支えていた女工さん達が賃金を手にしておしゃれをしてふるさとへ帰っていく姿の写真もあった。
帰り際に会館の駐車場を横切って行く数名のグループがあった。
みなさん車椅子の80歳代から90歳を越えていようかという女性達。
想像なのだが、お若い頃、この岡谷で製糸業に携わった女工さん達なのではないか。
きっとその当時に想いを馳せて会館内の繰糸機達と対面してきたのだろう。

    


生糸産業全盛の時代から約100年。
ここ数年に至り、価格重視、生産量重視の世界とはまた別の
少ない量でもイイ物、面白い物、安心して豊かな気持ちで使えるものを求める時代にもなってきた。
改めて先人たちの知恵や努力を活かさなくてはならない。
それら作っている人の顔が見えるほどの位置に私たちは住んでいる。
食べる物も、着る物も。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

今回企画していただいたOさん、同行の皆様
種々解説と撮影許可もしていただいた宮坂製糸所様
そして岡谷蚕糸博物館館長さん、
とても有意義な研修でした。
厚く御礼申し上げます。

桜満開の宇治川添いでの撮影

友人の娘さんが今年成人式を迎えた。

きもの関連の仕事をしている彼女(母親)は
白生地の吟味から始まり、色や柄の希望を友禅の工房へ伝えて
娘さんも気に入る特別の一着が仕上った。
束ねのしめ柄が白地に大胆に描かれ、上前に金駒刺繍を入れた豪華なもの。

その特別の一着を着て近所で撮りたいと相談があったので
セルフポートレート作りをされている大阪の女性カメラマンさんに依頼。
年明けすぐに今日、4月4日を桜を背景にした撮影日と決める。
途中やきもきしながら開花から満開予想をチェックしていたのだが
“この日しかない”というぐらいの絶好の撮影日となった。

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一緒に写っているのはお姉さんではなくお母様
お母様の着物は白大島に絞りの絵羽柄。
この着物もお気に入りの一着。


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一般のお嬢さんなのにプロモデル並みの堂々とした立ち姿に
まぶしいくらい若さはじける美しさだった。


この撮影でできる、ちょっとしたパーソナル写真集。
ほんとに楽しみ。

(ご本人の許可を得てUPしています。)

『キモノハドコデカエマスカ?』

先日着付をしていた時のこと。

とあるリゾートホテルからの依頼で某アジアの女性に着付をした。
着付けている最中に、
「着物はどこで買えますか?」
とまったくもってシンプルな質問。。。

ただ、答えようとして愕然としたのは
いろいろなことを考えてみて、、、思い当たる呉服店がナイ。。。


ここは京都なのに。。。


もう少し聞くと仕事やプライベートで日本へはよく来られるそうで
食事やパーティ用に自分でも着物を持ってみたいとのこと。
外国人向けお土産のようなものではなく“正絹の普通のきものをオーダーしたい”らしい。


一回の海外旅行でン十万の買い物をポンポンとするリッチな観光客もいるが
今回の女性はその辺りは慎重派の様子。
「着物はいくらで買えますか?」という単純な質問にも「ぅーーーー・・・」と答えに窮する現状。
チャイナドレスやチョゴリ・アオザイなどのようにファスナーや簡単な紐でさっさと着られるという代物ではないため
どのように答えたらいいかも悩む。
ちなみに日本語は×。
ホテルの通訳さんにはすっかりご苦労をおかけした。。。


呉服店を紹介しようにも“誂え・購入プロセスを楽しむ”為にはお店の人の英語力も不可欠。
最終的に高額な買い物になるのでそれに見合った店構えやおもてなしも必要。

果たして日本の呉服店にヴィトンやエルメスなどのショップのような
隙のない接客ができるところがどれぐらいあるのだろう。。。

最近は今回の女性のようにアジア圏から来られるケースが増えている。
昨年着付けた香港の女性はきもの一式を持っていて京都での散策や食事・パーティによく着るそうだ。

きものについて“全くわからない度合い”が日本人の比ではない外国の方に
いったいどうやって説明して納得して持ってもらうのか。


まだ稀なケースかもしれないが
そういうことを想定して呉服販売を考えてもらえると
着物ビギナーさんへの対策もできて、もっとすそ野も広がるのではと痛感した。


ともかく英語力が着付にも必要である。。。_| ̄|○




和箪笥整理

2008年が明けた。

この年明けはややさっぱりした実家の自室である。
暮れに丸一日を費やして和箪笥の整理をしたのだ。


08-12-30

          整理が終わったら日暮れ。2007年が終わった。

もう着物を着なくなった母の物や祖母から譲られたり作ってもらったりした着物が
大量に出た(もともとあったw)のだが
実家にあるよりも京都の家へ持っていって整理していく方が目が行き届く。
ただ、中に真っ赤な色の道行きコートや雨コート、派手な色合いの羽織など
丈も短く、染め替えもままならないようなものも多い。
そういったものはどうしようカ。。。  と悩むが廃棄もできず
やむを得ず実家に“居残り”で長期保留と決定
他のものは宅配便で送る。

かくして京都の我が家の和室一隅に畳紙の山が出来た

まずは着る機会がすぐに訪れそうな父の大島紬アンサンブルから。
あまり背の高くなかった父のものなので当然のことながらおはしょりが出ない。
衿も男物なので狭衿だ。
まずは全部解いて、帯下に隠れる部分で羽織の生地を使って接ぎをしてもらう予定。
衿の生地も取れるので替えてもらおう。
洗い張り→接ぎ→仕立直し と費用もかさむが
充分着られることを考えるといろんな意味で価値のあるリフォーム。

そのほか染め替えが効くものはぼちぼちとプランを立てて行こう。

しかし、しかしダ・・・
今年は大量のきものの解き作業が常に待っていることになる




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宇ゐ

Author:宇ゐ
宇ゐのキモノブログへようこそ!
京都で着物スタイリスト、着付コーディネートをしています。
きものに関する出来事や気がついたことなどを綴っていきます。

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